年をとるのは平気じゃないのだ。みんな静かに驚いているのだ。(『ぼのぼの』)
コロナウイルスが流行し始めてから2年近く経とうとしております。自粛生活が続き、早く元の生活に戻らないからなぁと待ち侘びているうちに2歳分歳をとりました。コロナ禍中に生まれた娘も今では公園で歩き回っております。子供の成長を見ていると、そんなにも年月が経っていたのかと驚かされます。
また、この2年の間に何名かのお檀家さんともお別れをいたしました。とあるお檀家さんは足が弱って自力で本堂に上がる事が出来なくなりました。
そういった場面に遭遇するたびに私は心が痛みます。
年をとるのは自然の成り行きで誰もが通る道ではありますが、その自然の成り行きを素直に受け止める事は難しい事です。
お釈迦様はかつてシャカ族の王子でした。しかし、城の外で初めて老人というものを目にした時、恐ろしくなってお城に引き返したという逸話があります。そこから老病死の苦しみから解放される道を求めて、遂に悟りを開きました。
私達は悟りを開いていないので自らの老いに気づくと驚きます。ただ、そこで若さを求めて苦しむのではなく、その老いとうまく付き合っていく智慧を仏様から少しでもいただきたいです。
己のためにならぬことはなし易い。己のためになることは実になし難い。(『法句経』)
明日は早いから今日は早く寝よう。将来のために勉強しよう。ずっと健康でいるために食事に気をつけて適度に運動しよう。誰もが自分のために○○しようと思いはするけども、誰もがそれを実行に移せるわけではなく、怠け心にとらわれてしまう方が多いのではないでしょうか。
自分のためになるということは何か?仏教の教えから改めて考えてみますと、善い結果を受けられる行いが為になること、悪い結果を受ける行いが為にならない事でしょう。まさに自業自得の教えです。この教えは誰もが頭では分かっているつもりですが、なかなか思っている通りに行動できない私達です。そんな私達を閻魔様はどのような想いで見ていらっしゃるでしょうか・・・
お釈迦様はこの世の苦しみから解放されるために修行を積み、覚りを開かれました。そして自分と同じ境地に至るための実践法を説いたものがお経です。
お経には様々な教えが説かれておりますが、どの教えを実践しても、その修行を極めた時にはこの世の苦しみから解放され成仏するでしょう。
浄土宗では南無阿弥陀仏とただひたすらに念仏を唱えることで阿弥陀仏の救いに預かり極楽浄土に生まれることでこの世の苦しみから解放される、という教えです。
厳しい修行を行うことが出来ず、ちょっとした我慢も出来ずに目先の欲に流されてしまう私ですが、南無阿弥陀仏といつも念仏を唱え、「このような愚かな自分ではありますがどうぞお救いください」と、謙虚な気持ちで念仏の修行に励んでおります。
自らの不信心を嘆くのは信心深い証
普段月参りにお檀家さんの家に参りますと「あら、今日はお父さんの月命日だったの忘れてたわ〜全くダメな自分ね。」と自分を責める方がいらっしゃいます。そんな時に私はいつもこのように言っております。
「大丈夫ですよ、本当に信心がない人は月命日を忘れた事すら気にしてないんですから」
信心に限らず、自分の求める理想と現実が離れてて、そんな自分がやだなぁ、こんなんじゃダメなんじゃないかと感じることは誰にでもある事だと思います。
浄土宗では特にお念仏を常にお称えすることが大事とされていますが、誰でもできるお念仏ですら、なかなか続かないのが凡夫の悲しいところです。
そんな自分の信心の至らなさに悩む人に対して法然上人は次のようにおっしゃっております。「目的地に向かうとき、急いでいる者は足が遅いことを嘆き、急いでいない者は足が遅くても気にしない。そのように、お念仏に励む気持ちが湧いてこない事を嘆くのは決して極楽に往生したいという気持ちが全く無いわけではない。各々の思いに合わせてお念仏を続けていけばいつかは立派な念仏者となり往生するだろう」と仰っています。
お別れしたけど 今でも一緒に 生きている
「愛別離苦」という仏教の言葉があります。この世には愛するものと別れなくてはいけない苦しみがあり、決して逃れることはできない、というお釈迦様の教えです。
仲の良かった友達と転校や卒業で離れ離れになったり、夫婦家族が離婚でバラバラになる事は誰にでも起こりうることです。その中でも大切な方との死別こそがもっとも辛いお別れだと思います。
しかし、肉体的に別れてしまったらそれでお終いなのでしょうか?大切な方を思う気持ちがそこで途切れてしまうのでしょうか?
そうではありません。自分が想いを持ち続けていれば一緒に生きているのです。
私は日常の中で、かつて故人が好きだった食べ物を目にした時や、2人の思い出の場所へ来た時など、故人が今でも私の心を動かし、私と共に生きているんだと実感します。
お盆の時期は先だった方がこの世に戻ってくる期間と言われております。この時期に故人との思い出を振り返り、また自分の行く末について思いを巡らせてみるのはいかがでしょうか。
誰に対してもトゲのある言葉を言うな
言われた人達はあなたに言い返すだろう (『ダンマパダ』)
私達は言わなくてもいいような余計な一言をつい言ってしまいます。その理由は私達の心に相手を責めたい、言い負かしたいという攻撃的な感情があるからです。
確かに言った瞬間はスカッとして気持ちがいいでしょう。しかし次の瞬間には相手からの応酬があり、再び怒りの炎に油が注がれることになります。
お釈迦様のお言葉はいつも当たり前だと思う事を説かれておりますが、実際にやってみるとなると難しい、心が穏やかでないときは尚更難しいです。
しかし、やったらやり返される、負の連鎖が永遠に続くのはお互いに苦しいので、この言葉を常に心に留めて、腹が立った時はよくよく気をつけてください。
ある人「念仏してる時、眠くなったらどうするか」
法然上人「眠い時は寝て、目が醒めている時に念仏しましょう」 (『徒然草』意訳)
『徒然草』の著者である兼好法師は仏教的な生き方を重んじる方です。『徒然草』の中では日常の中にある無常感を説く一方で、女性の魅惑や双六の勝ち方など、様々なことについて思うままに書き記しております。そんな兼好法師ですが、法然上人の言葉を挙げて「尊い言葉である」と言っております。
法然上人は教えを乞う人々に対して、決して過酷な修行を勧めることはしませんでした。その代わりに「ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけでよい」とお伝えしておりました。
ある日、1人の僧侶が法然上人のところへやってきて「お念仏を称えてる時に様々な雑念が湧いてくるが、どうすればいいか?」と尋ねました。すると法然上人は「雑念が湧いたままお念仏をおとなえしなさい。煩悩を断ち切るのは生まれつきの目鼻を取り除くような、不可能に近いことですよ。」と仰った。その僧侶は安心した様子で帰っていった。
法然上人が亡くなってから徒然草が著されるまで百年以上経っておりますが、兼好法師はかつて法然上人のような優しくも偉大な僧侶がいた事を思い起こし、尊い方だなぁとしみじみ感じたのでしょう。
「いつ死ぬか 分かれば貯金 使うのに」(第十七回 シルバー川柳)
二年前に金融庁が「100歳まで生きるなら2000万円の貯蓄が必要」という報告をしたことで私たちの老後への不安が一層高まりました。2000万円無くても大丈夫と言う人もいれば、先進医療を受けるならばもっと必要だと言う人もいます。しかし結局のところ、いくら貯金があっても将来への不安は無くならないのが人間の性ではないでしょうか。それこそ、いつ死ぬか分かればお金も計画的に使い切れそうですが、余命宣告されるのはそれはそれで辛いものです。早死にはしたくないけど長く生きるのも大変、子供に迷惑をかけたくないけど自分で老後の生計を立てていくのは不安、そんな現代社会をよくあらわしている川柳だと思います。
とあるタイの僧侶の方は次のように仰っておりました。「お金は使うと無くなるし来世に持ち越すことは出来ないが、功徳は積んだ分だけ自分に善い結果として返ってくるし来世に持ち越すことも出来る。」
もし、来世は極楽浄土のような安らかな世界にいけると信じて、仏様を供養し善い行いを心がけて功徳を積みあげていけば、将来に対する思いも少し変わってくるのではないでしょうか。
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