不断寺の歴史


不断寺について


不断寺は寛元4年(1246年)鎌倉幕府第四代執権、北条経時によって建てられました。不断寺は元々は鎌倉笹目町の北条経時の屋敷の中にあったと言われております。その後幕府滅亡と共に荒廃し、文禄元年(1592年)長井の地に移されました。(なぜ長井に不断寺が再建されたかは不明です。)

大正12年、関東大震災によって本堂が全壊しましたが、東京両国の回向院から派遣された弁瑞が不断寺第22世となり、昭和2年に不断寺を再建しました。

 不断寺という寺名は阿弥陀仏の12の別名の一つである「不断光仏」からきております。阿弥陀仏から絶え間なく放たれる光明が私達を常に照らしてくれることからその名がつけられていると経典に説かれています。北条経時は鎌倉幕府の執権として活躍しましたが、23歳という若さで亡くなり、浄土宗大本山光明寺の前身である蓮華寺に葬られました。現在、不断寺の上に供養塔が建てられております。

お十夜について


お十夜の正式名称は「十夜法要」と言います。浄土宗の十夜法要の起源は大本山光明寺に所蔵されている『十夜略縁起』です。「昔、伊勢貞国という男がこの世の無常を嘆き、極楽寺内の真如堂というお堂に籠って出家しようとしたところ、突然僧侶が現れて出家を3日待つように伝えた。いわれた通り貞国がお堂で勤行しながら3日待つと、貞国の兄が左遷され自分が家督を継ぐことになった。その喜びから貞国は7日間更にお堂に籠って勤行した。貞国は合わせて10日間お堂に籠った。これが十夜の起源である。それから時が過ぎ、1495年に鎌倉にある浄土宗大本山光明寺の第9世祐崇上人が当時の天皇である後土御門天皇に対して『阿弥陀経』というお経の解説をし、真如堂にて法要を行ったところ、後土御門天皇はたいそう感動されて真如堂に伝わる十夜法要を光明寺でも行ってもよいという勅許を下された。」

これが光明寺での十夜法要の始まりといわれております。十夜法要は全国各地の浄土宗のお寺で行われておりますが、特に盛んなのは鎌倉光明寺周辺のお寺です。